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第24号:「家畜の幸せ」のために③

吉村 格(准教授/牧場長補佐)

2008/3/28 更新
 家畜の「幸福」を求める「家畜福祉」の問いかけは、勿論幸福な人間から不幸な家畜へと発せられるものでなければならない。しかしながら「幸福」とは、現在において満たされてある感覚でしかないという定義により、言葉を持ち、自分というやっかいな存在が身も心も支配しようとする人間は、先々幸福であろうと欲するために現在において決して満足することはない。逆に言葉を持たず、自己言及できない家畜は、現在を生きる感覚が全てであり未来を語ることが出来ないという理由で「幸福」になれる可能性が高い。つまりこの問いかけは当事者の条件そのものに捻れがある。そのため「家畜の幸福」を敢えて求めるならば、お節介にも人間が飼養する家畜の「幸福」が何であるかを決めてやらなければならないという笑える話になる。
 そこには言葉を定義する我々の姿が必ず投影され、彼の動物福祉の本家が掲げる家畜飼養とは異なった管理方法になる可能性は十分にある。食品に対する隣国の「安心・安全」という言葉が我々の使っている言葉とは違和感があると悟ったように、彼の国の「家畜福祉」という言葉が我々と同じ語義であるかどうかは疑わしい。共存する家畜に対して恥ずかしくない日本バージョン、富士アニマルファームバージョンの「家畜福祉」の御旗を掲げて方策を進めていかなければならないだろう。
 それでは富士アニマルファームにおいて家畜がどのようなときに「幸福」であると定義しよう? 我々は、敵がおらず十分な食べものがある、その結果としての満たされた家畜の様態に「幸福」の名を冠するべきだと思っている。その求められる牛たちの究極の「幸福」な姿とは、反芻しながら微睡み、曖気を出しながら夢見心地のあのボケ-としただらしな-い姿である。素人が美しいと叫ぶ、我が身を守るために全神経を集中させ今にも走り出さんとする姿ではない。人間に飼われ闘争・逃走から解放された家畜の飼養管理において、この「幸福」と名指した時間をいかに長くして保ってやることができるかが職員の大きな責務となる。
 我々は「家畜が幸せであってほしい」と願う。但し、家畜の「幸福」をアレコレ定義することも、食料生産という目的をもつ家畜の「不幸」を嘆くのも、全ては言葉を持つ人間側の逞しい想像でしかないということを理性で確認しておかなければならない。でなければ笑える話も笑えない「家畜の幸せ」を求める「人間の不幸」な話に陥ってしまう可能性が高いからである。