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第30号:獣魂碑

吉村 格(准教授/牧場長補佐)

2008/8/13 更新
 『家畜とは人為的にこの世に生を受け、我が身の代償として畜産物という名の食料を供給するという明確な目的をもって生まれてきた動物達である。それ故、彼らは死を覚悟して凛として生き、目的を遂げた時には幸せであった』と我々はお節介にも彼らの幸せを定義してきた。しかし言葉の取り決めは言葉の問題であるからこそ、一度「なぜ同じ痛みを感じる家畜を当然のことのように殺し、食することが出来るのか」という疑問が心に噴き出ると、その自問に納得いく答えを準備できないばかりか、人が家畜を殺すのと人がヒトを殺すことの差異さえも見失ってしまう。価値を等しくする命であると美しい言葉で讃える人達は、人間が家畜の命を奪い食することの根拠をどこに置こうとするのだろうか。同じ命であるならば、『頂きます』と手を合わせた程度の感謝の仕方では家畜の魂は決して我々を許してはくれないだろう。しかしながら肉食を全くしないという答えは最も潔い決断ではあるが、根拠を問う前に家畜を既に食していた我々にとって、その時点にまで引き返しベジタリアンへの道を選択することは実に大きな試練である。ならば、どこに立ち位置を確保し、どのような考え方に至れば食肉することの妥当性が見つかるのだろうか?
 我々人間は、たとえ獣性によって芽生えた命であったとしても、生まれる前から期待され希望され、神仏に手を合わせてやっと叶えられた命である。人と人との関係が紡ぎ出す多様な糸に絡まれ縫い込められ、歴史の縦糸と社会の横糸に繋がった命である。どんな人間であったとしても、この世でその存在は許され、認められ、喜ばれている。その存在は愛しく、存在そのものが目的であり、生きること自体が価値なのである。それ故、人はたとえ悲しく辛くても、苦しい絶望の淵で悶えているとしても「自ら死を選ぶことは決して許されていない」「死ねる自由は全くない」と私は考えている。「尊厳」という言葉は、そのような人として生まれ、人として遇された人間の命に与えられた言葉であって、他の命に向けられた慰めの言葉ではない。将にこの言葉の定義こそが、ヒトを殺すことと家畜の命を奪い食することの違いを問う論理の源流なのではあるまいか。それ故に、生き抜くことの意志をもつ人間が自己決定を下せば、家畜の命を一方的に搾取することは許され、逆に我が身に忍び寄る老後の不安な生活よりも格段に幸せに生かすことだってできる。ならばせめて肉食を可とする消費者は、飼養者が家畜の幸せのために最善を尽くすことを条件に、目的が具現化されるよう環境を整える手助けしなければならないだろう。スーパーなどで「今日のお肉は高いわね」などというのは言語道断、噴飯ものであると私は思っている。その人達は頂く命に対してどこで感謝を捧げようというのか?
 勿論、「尊厳」という比較衡量を許さない言葉だけを根拠にして「人間には生殺与奪の権限がある」とはいっても心の霧は一掃されそうにもない。そんな折り「獣魂碑」と書き込んだ石碑が私を慰めてくれる。この碑の前で、「自分の存在そのものの罪」を問いながらこの世を去った多くの家畜の命を思うとき、私が証明できる幸せだった彼らの存在と、彼らが証明してくれる私自身の生存の確かさが私に安心を与えてくれるのである。