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第37号:アニマルファームの丑年の1年

吉村 格(准教授/牧場長補佐)

2009/2/3 更新
 乳牛の価値は雌である。酪農家にとって乳を出す雌牛こそが生業を支えるための生命線である。月が満ち母親が産気づき分娩の時を迎えると、我々は期待しながら気合いと愛情を織り交ぜて介助を行う。母親のもがき苦しむ息づかいの中から破水とともに黄色い餅を握った前肢が現れると、「爪が小さいからメスだ」とまずは希望的観測を一言。胎児の舌先が見え、鼻先が出てくると、その先はいつも母親が最も耐えなければならない陰部の大きさとの関係が問題になる頭頂部である。ここさえ頑張ってくれたらもう母体は大丈夫だ。首から肩にかけては背骨と同じ角度で斜め下方向に少し引っ張ってやれば、胸と腰の胴体部も難なくスルスルと抜け出てくる。さらに後肢は弾みをつけながら加速度を付けて母親から引き離される。まるで外の世界に希望があるかのように仔牛は放り出されるのである。ここで我々は緊張感から解放されて一息。乾いたタオルで濡れた仔牛を拭きながら臍帯の処置をして後肢の片方を持ち上げる。さてオスなのかメスなのか。
 職員は予想に反し娩出された仔牛の股間に丸いものを見つけると、未だ卑猥でもないそれそのものには全く罪はないのであるが「なんだ-オスかよ-」と言わなければ気が済まない習癖をもっている。実習中に分娩が始まると学生達は超真剣モードで母子の様子を見守ってくれるが、ついつい我々が言わなくてもいいことを口走ったりすると、その後に提出されたレポートには必ず「附属牧場で働く職員に愛はない。男女を差別する人間だ」みたいな強烈な言葉で埋め尽くされる。
 確かに、酪農は産ませて乳を搾り経営を存続させていくわけであるから、妊娠させるための授精技術においては苦労の連続であるが、産まれた仔に「ついてる」か「ついてない」かは努力と人知の及ぶところではないのであるから所詮それは「たまたま」なのである。自然が決めたことに異を唱えることは、それと不即不離にある農業者にとって天に唾する所業である。今後は学生に気づかれない程度のため息に止め、オスであったとしても気持ちよく受け入れることにしよう。ほぼ2回に1回はついてしまうことになる娩出後のため息は、帰属集団である酪農家と同じ思いであるが、かつて働いていた競走馬の繁殖牧場では「なんだ-メスかよ-」と嘆いていたのが懐かしい思い出である。
 さて、牛からの新年早々のプレゼントは2頭続けての体躯の美しいブラウンスイスの雌であった。果たして富士アニマルファームの丑年の1年は「ついている」のか「ついていない」のか? 「運」であればついてくれることを天に祈りたい。