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第69号:「美しい」の意味するもの

吉村 格(准教授/副牧場長)

2011/01/05 更新
在りし日のバイエル号

在りし日のバイエル号

 日曜日の午後。のんべんだらりとテレビを眺めていたら競馬のG1レース天皇賞が放送されていた。かって我らが牧場は少数といえども競走馬の生産をしたことのある大学施設である。中央競馬で4勝したバイエル号という馬を輩出したことは自慢話の一つとして未だ語り継がれている。ついつい懐かしさも手伝ってテレビに見入ってしまった。パドックを周回する馬たちの中でひときわ美しい鹿毛馬が私を引きつけて離さない。馬名はブエナビスタ。結果、この牝馬が古馬の兵達がひしめきあう天皇賞を圧倒的な力で制した。
 驚いたことに、もう10年も前のこと、私はその日曜日も何気なくテレビを見続けていた。同じ天皇賞であったと思う。武豊が騎乗する、それはそれは美しい鹿毛馬が目に入って焼き付いた。スペシャルウィークという雄馬である。実は後で分かったことであるが、ブエナビスタはこのスペシャルウィークの娘であった。私は、この父娘に共通の美しさを見ていたことになる。馬の世界から遠く離れた今でも私の馬に対する美意識は基を一にしているらしい。「美しい馬だ」と隣でうたた寝をしている妻に声をかけた。
 我々は「美しい」という言葉をどういう場面で発するのだろうか? 「美しい」という感嘆詞を使っている私は、対象物である「馬」に対して感動し、ほとんど思考放棄の状態にある。「美しい」という言葉は、人間関係を豊かにする特別な言葉である。ものを見て「美しい」と実感させてくれる感受性は、遺伝的にその芽を受け継ぎ、躾や教育という名の下で両親の愛に育れ、その後の社会での豊かな人間関係の中で蕾となって膨らみ、自分の美意識を自覚する時にはじめて価値あるものとして花開くことができる。つまり「美しい」という言葉を使うことは、安心な人間関係の必要性を願う人にとっては憧れである。
 しかも、このような人間関係の幸福感に深く根ざした言葉は、自分だけのものとして手元に置き留めることで満足しない。自分が「美しい」と思う対象を人に語ることによって、それを「美しい」と思うことができる自分の心を理解してもらいたいと欲求するからである。我々が人に美意識を語ることは自分の人生の価値を語ることであり、自分を丸裸にさらけ出す無防備な行為でもある。よって「美しい」という言葉を発する時には、その相手に対して必ず何らかの愛情が伴っていることは間違いない。互いにクセのある「美しい」と感じたことを分かち合って生きてきた隣で鼾をかく人は、今では愛さえも通り越し存在するだけで十分に意義ある人になっている。この人がいれば今後の私の人生も「視界は良好」、buena vistaである。