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第82号:「ボクチャンが逝った」

吉村 格(准教授/副牧場長)

2011/9/5 更新
岡部さんとボクチャン

岡部さんとボクチャン

 富士アニマルファームで飼われていた犬のボクチャンが逝った。まだ上九一色村と云われていた頃、青木ヶ原樹海の中を縦走している道路に10数頭のゴールデンレトリバー種が放されたことがあった。たぶんブームが去り飼うことが出来なくなったブリーダーが棄てていったのだろう。その中の1頭がボクチャンで、一旦は農家に拾われたが去勢されていないということで富士アニマルファームに持ち込まれた犬である。たぶん血統が良く繁殖のための種雄として君臨していたのかもしれない。それから8年、その間ボクチャンは職員だった故佐藤修平さんによく懐き、また学生だった岡部女史に大変可愛がられ、また他の犬たちとの折り合いもよく平和に暮らした。
 学生の実習後のレポートには、こんな環境で犬を飼って可哀相だという意見も多い。動物をどのように飼えば皆に満足してもらえるのかは分からない。何が動物の幸せなのかも分からない。ただ不幸と思われる可哀相な犬を引き取って飼養し最後まで看取っただけの話である。我々は不幸と思われる様相の反対側を指して幸せと呼んでいるが、そういう意味では幸せな富士アニマルファームでの8年間であったと思う。死ぬ2週間前からは好きなジャーキーも食べなくなった。自分で少しだけ水を飲んでいたが叶わぬようになってからは職員に日に数回顔を持ち上げさせ口を濡らしていた。それはまるで最後の挨拶をするために呼び寄せているようであった。ゆっくりとした呼吸と平穏な顔は数日後に息を引き取ることはわかっていても我々を安心させた。
 私の人生の末期、老衰が進んでいよいよ食事を口からすることが困難になった時、誤嚥性の肺炎を防ぐために経鼻胃管もしくは胃瘻を増設して栄養を摂取することになる可能性は高い。その他の延命処置の選択についても年老いた私を支える家族に委ねられ彼らを悩ますに違いない。そうすることで後暫く私は命を保つかもしれないが断固として拒絶したい。素直に自然死を受け入れたいと思う。自分が死の床に就いて食べられなくなった時は水だけを与えてほしい。それだけでも私の命はお世話になった方々とお別れする時間を稼げるしぶとさはもっているつもりだ。余り手立てを尽くさずに水だけ与えてもらえば苦しむことなく静かに息を引き取ることが出来そうな気がする。これが動物たちの最後を看取っている私の直観である。
 当たり前のことではあるが自分が死に向かう時にどのような希望をもつのか、また自分が死んでいく時にどのような気持ちになるのかは全くわからない。できたら最後の私を支える家族が平和な心でいられるように、また私自身もなるべく苦しまずに逝きたいものだ。これまで家族で暮らした家から逝くことが出来たら最高の幸せである。天井にできたシミを見ながら家内と夫婦になってからの苦労を慈しみ、壁の傷を辿ってなんとか成長してくれた子供達の思い出に浸りながら、人生最後の日を過ごしたい。手許に逝く1日前の安堵したボクチャンの写真がある。生存の最後は死に様であるが、思い出として取り出してみるときの最初もまた死に様である。私も精一杯に生き抜いて「よいお別れ」をしたいものだ。