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牧場だより「継・いのち」 第106号 | 「現場からの提案」
第106号:現場からの提案
吉村 格(教授/牧場長)
2014/04/30 更新
以下の事を言いたくて動物科学科の新入生の前に立ったが頭が真っ白になってしまった。
大上段に構えて「現場主義」などと言うつもりはないが、大学という最高学府の組織の中で、多少なりとも私に自信めいたものを与えてくれたのは、これまで畜産の現場で培ってきた経験である。並の頭しかもたない私には情報から得られる知識だけを足場に優秀さを誇る本学教員のもつ膨大で正確な知識に対抗する術などもっていなかった。しかし、学生時代から始まった動物を飼養管理した少しばかりの経験が次の経験を支える基盤となり、有難いことにそれ等が継続して積み重なり今日にまで至っている。経験を積むためには、それなりの体力や時間や悔し涙が必要で、まったくもって効率的でなかったにしても私にはこれしかできなかった。しかし還暦を迎えた今、一つ一つを自分で工夫して状況を乗り越えた現場での経験は実に面白いものであったと思いを新たにしている。
山登りの素晴らしさが、実際に辛い思いをしながら自分で登って山々を眺望することでしか理解できないのと同様に、食べ物を大切に食べる理由も、無から有を生む農業の楽しさも、その苦しさや難しさや達成感を実感することなしに理解できるものではない。食べ物を無駄にするなと喚起しても、生物の日々成長するワクワク感を伝えようとしても、食べ物が自分の口に入るまでのプロセスを全く見ることのない日本社会にあっては、これらの基本的な思いを人々に伝えることは実に難しいと思う。かく言う私も、人から受動的に聞いたことや教えられたことで心に留まっているものはほとんどないように思う。結局私は自分の経験を加味しなければ自分が理解したことにはならず、自分の思想にまで昇華させることはできない、という考えから抜け出せないでいる。
私にとって情報という知識は、方向性を持たせて集約しないと、時には物知り顔で人々に自慢話が出来たとしても役に立ちそうにない。知識だけで長い人生を渡り歩こうとするのは無謀だし、それさえ気づかない人は現実社会への対応がうまくいかず、自分の内向的な世界へと逃避行が始まることも知っている。私の場合、知識として蓄えてあったものが自分の経験に触発され、また経験に知識が供給されて私の思想として立ち上がったものがある。どうも私の生き方というのは、自分自身の知識と体験の往復運動でしかその重さを実感することが出来ないようだ。情報というものは新しい情報を入手すれば古い情報は陳腐なものになってしまう。しかし経験は、どんな小さな「経験」でも過去のものとして流れることはなく一つ一つが積み重なって私の血肉になってくれてるような気がする。
さて、私同様に受動的な情報だけでは、十分に理解することも想像することも、それを自分の思想へと昇華することも出来ない学生はいると思う。どうしても自分のフィルターを通して見なければ、組み立て方をしなければ、心に重さとして残る感覚がないという学生である。さらに「本当だろうか」と対象に近づいてみる好奇心、「何だろうか」「どうしてだろうか」と考える観察眼と想像力は、自分の生き方の思考回路を作り上げようとする若者の特権でもある。もしかしたら我々が富士アニマルファームで学生に教えていることは技術的レベルは低いかもしれない。しかし、教えていることは嘘ではない、教科書に書いてあることの投げ売りでもない、愚直なまでに現場で経験し確認したことの知恵である。60才の爺の心の叫びを老婆心ながらというのが正しいかどうかは知らないが、「現場での経験は必要だ」という私の言明はそんな学生さんにとっては正しい事だと思う。