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牧場だより「継・いのち」

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学

第203号:幻覚

2019/1/31 更新

吉村 格(教授/牧場長)

▲26年前の旧牛舎①

▲26年前の旧牛舎②

 9月から始まった既存牛舎の建て替え工事は順調に進捗し、いよいよ完成も間近い。昨年まで利用してきた既存牛舎は、昭和42年にこの地を開拓した農家自身によって建てられたものであるが、私が26年前に宮城県小野田町から3頭の牛と5頭の羊と3頭の繁殖牝馬を引き連れて来たときには、晴れた日は天井から明るい日射しが差し込み、夜はその隙間から星が眺められ、雨の日は大騒ぎとなった。搬入した牛や羊はこの朽ちかけた牛舎でもなんとか繋いで管理することが出来たが、馬は放牧する必要があった。

 馬という動物は肉食獣から自分の身を守るための走る能力は長けているが、その体を支える食べ物を消化・吸収するといった能力は牛と比べ全くの不出来である。例えば運動不足の環境では疝痛(腹痛)を起こすこともしばしばで、放牧して運動させることは馬の飼養管理上の重要な作業となる。私の新天地、山梨県富士ヶ嶺地区での喫緊の仕事は馬を放牧するための牧柵つくりから始まった。私は草地の周囲に一本一本と杭を打ち、その杭に黄色と黒で織り込まれた工事用のトラロープを2段に張って柵を廻らし、馬を放した。

 馬はロープの黄色を認識してくれたようで脱柵することはなかった。色覚はおそらく哺乳類には普遍的なもので、日常生活の中で様々な背景から物を識別するために必要であろう。色覚を担っているのは網膜の視細胞にある赤・緑・青の錐体細胞で、それぞれの細胞は反応しやすい光の波長が決まっている。しかしながら、赤・緑・青のセンサーしかないにも拘わらず一番よく見えるのは黄色であるという。脳は赤と緑の電気信号が同時に来ると脳内で色を混ぜて勝手に「黄色」を創ってしまうのだそうだ。つまり放牧された馬は「黄色」という脳が創った「幻覚」を意識することで柵の外に逃げなかったのである。

 外の世界と脳内の世界が一致しているかどうかは分からない。自分の世界と他人の世界が同じであるという保証もない。私の意識も幻覚と混濁している可能性は高い。これまで現場を運営するために多くの議論を重ねてきたが、私の独善で多くのことが決定されたのも事実である。私にとって、開拓者の魂が宿る古い牛舎を引き継いで仕事ができたことは素晴らしい思い出であったが、そこで行われた多くの実習や研究が、たとえ幻覚であったとしても学生の皆さんの良き思い出と重なってくれていれば本当に嬉しい。逆にそうでなければ定年退職を機に、私が裸の王様であったことの「免罪符」をいただきたいと思うのである。

▲馬の放牧地をつくるために杭を打っている様子

▲トラロープを張ったところ、馬は脱柵しなくなった
(見学に訪れた両親と)