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第128号:泌乳マシーン

吉村 格(教授/牧場長)

2015/01/09 更新
 「我思う、ゆえに我あり」で有名なフランスの哲学者ルネ・デカルトは、動物は意識を持たない自動機械のような存在だと考えた。心身二元論者の彼は、肉体と魂は全く別存在であり、動物はそもそも魂を持たず、従って魂の機能である意識など持つはずがない、もし動物が痛そうにしていてもそれは単なる生理反応であって、ヒトの「痛み」とは異なるものだと考えた。デカルトはダーウィンの進化論発表以前の人だったので、人間には魂があるが動物にはないと主張することも平気で出来たのかもしれない。しかし現在の科学の共通認識は、ヒトもまた他の動物と同様に同じ先祖から出発し自然淘汰によって枝分かれして現在に至っているということだ。生命中心主義のようにあらゆる動物に内在的価値を認めて人間と同等だとする極端な考え方もある中で、我々はどのように考えて家畜を飼い続ければよいのだろうか。
 我々は進化論を信じ心身二元論を排しながらも、例えばお葬式に参列したら亡くなられた方の冥福を祈り魂が安らかに憩うことを願っている。このように一般論と実際の具体的行動との差異は、形而上学の専門家である哲学者が市井の話し合いに参加したときと同様な混乱を招く。熱く愛し合った夫婦が相手に対して顔も見たくない声も聞きたくない近くにいることさえ許さないという関係に変貌しながら、動物には愛情が必要だとか終生面倒をみなければならないと理想を求める姿や、凄まじいばかりの電車内の混雑や大変なストレス社会でクタクタになって生きていながら、鎖で繋がれた犬は自由でないので可哀相だと言って哀れむ姿も、実生活に一般論を接ぎ木した滑稽な物語である。さらには、自分の所属する牧場では相当数の死亡淘汰家畜を出しておきながら、動物の飼養管理には人間としての配慮が必要だなどと主張して民意を煽る研究者の存在もワケがワカラナイ。
 我々の帰属的職業集団はまさしく現実の社会を生きる農家である。これまで是とされた評価の仕方や基準となる物差しの変更を迫られ、形而下の物語の中で右往左往していた人達である。畜産の中でも最も大変な飼養管理が求められ、年率5パーセント以上の仲間が廃業に追いやられている酪農家には、都市生まれの身勝手で底の浅い家畜に対する一般論は既に通用しないと思う。誰も助けてくれなかった過去の経験から学んだ彼等には経営者としての責任と覚悟しかない。彼等にとって、乳牛は愛情を注ぐ動物ではなく生活を支えるための道具であり手段である。しかもただの道具ではない。彼等が飼っている乳牛というのは、喜びや悲しみに流されない冷徹な感情と頑強な体力に裏打ちされた仕事人でなければ取り扱えない超精密な泌乳マシーンである。しかも先進的で専門的な知識が介入しなければ明日にでも倒れてしまう高能力の泌乳マシーンなのである。
 当然ながら管理者は動物の苦痛を我が事のように感じ、原因があればそれを取り除き苦しさや痛さから可能な限り解放してやらねばならない。それは動物に対する愛情からではなく農家経営にそれらの原因が痛手を与えるからである。都市の消費者は、産業として動物を飼養するというと顔を背け、生産性というと嫌い、効率というとカワイソウという。食べ物が溢れた日本の現在にあっては、国民に安全で廉価な食の提供を自負している農家にとっては生き辛い世の中になってしまった。しかし人間に向かわなければならない愛情がペットに偏重したペット依存社会から農家の資産である家畜を見て、歪んだ倫理観を振りかざすのはそろそろおかしいと気づいた方がよい。飢えの時代が我々の子や孫の時代の出来事となる可能性が少しでもあるならば、そういった甘えの社会から一歩踏み出し、未来の家畜の姿について真剣に考えなければならない時代に入ったのではないかと思う。