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牧場だより「継・いのち」

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学

第43号:学生に対する期待と不安

吉村 格(准教授/副牧場長)

2009/7/30 更新
 動物管理者の「立ち位置」は、経験に合わせて心身共に動物側により接近する。そして使われる言葉は、飼養経験の質と量とによって変遷し、その使われ方は動物に対する信条、意識のあり方や態勢がどのようなものであるかを辛辣に評価される対象となる。家畜とどこまで関係をもつようになったかで使う言葉も様々であるが、もの言わぬ動物に対する日々の作業である、嘘はすぐに見破られてしまう。
 富士アニマルファームを訪れた学生達は、家畜の微笑ましい様子、餌を欲しがったり食べたりしている姿、騒いだり暴れたりする時に立ち止まり、歓声を上げて喜んでくれる。そして動物を描写する時にもっともよく使われる表現は「かわいい」「おかしい」「かわいそう」「きたない」「くさい」「おしっこした」「うんこした」といったものである。
 動物の専門家になる自らの夢を果たすために、大学教員の授業を受け、それぞれが真剣に勉強に打ち込み、単位を認定され、積み重ねた豊富な知識をもっているはずの学生が、そこにいる動物の身体のつくりやその振る舞いに対して言葉が貧弱で深化しないのはどういうことなのだろうか? その理由の第一は、動物たちの存在を支え、生活を維持し、平和な生活を守るために要請される注意や関心、そして背負わなければならない家畜の日々の管理への嫌悪感が考えられる。第二に、故に煩わしい動物の日常の中には踏み込みたくない、自分の自由である時間を束縛されたくないという、主体ではなくいつまでも客体であり続けることを望む態勢が感じられる。第三に、そのために座学の情報だけで全体を把握しようとし、理解が及ばないのに幹と枝葉を取り違えて接ぎ木をするという無謀さを感じる。畜産業という基盤があって、健康な状態の動物がいて、行動や内分泌や遺伝子はその先にあるのだという生産現場での真を認めず、逆方向のベクトルでしか見ようとしないために、最先端の言葉は豊富であったとしても生きた動物にまでは辿り着くことがない。もし、教育的効果のほとんどが講義だけで得られるのであれば、富士アニマルファームにおいて教育のためと称して動物を囚われの身にしておく必要はなく、空っぽの畜舎を見せるだけで実習は事足りるのである。
 少なくとも私は、自分の使っている言葉のほとんどが学生時代の実習や馬術部に在籍していた頃の若い皮膚感覚で覚えたものが基礎になっている。さらに、不安な心を励まし人を夢に向かって奮い立たせるような言葉は実体験以外からは出ることはないと確信している。将来は動物の専門家としてバリバリ働き、必ず人々の上に立って指導することになる我が大学の優秀な学生達であるが、期待と共にその点だけが少しばかり心許ない感じがするのである。