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牧場だより「継・いのち」

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学

第51号:羊達と対峙しての想い

吉村 格(准教授/副牧場長)

2010/2/25 更新
羊たち
 主イエス・キリストの誕生の知らせは、最初に貧しい羊飼いの所に現れた天使によってもたらされたという。この世に貧しい人達はいくらでもいたはずなのに、なぜ彼らでなければならなかったのか疑問である。彼等の動物を飼養しその生涯を見届けるという自分の人生と重ね合わせたような仕事は、きわめて哲学的な生き方だったのかもしれない。同じ生き物であるのに喰うために羊を飼っている。どうして我々にそのような権利があるのか? 何故それが許されるのか? 何が自分と羊とは違うのか? 動物の飼養者はキリストの生まれるはるか以前から苦悩しなければならない宿命を負うていたのだろう。彼等は、食べなければ生きていけない人間の原罪を認めながらも心の平安が保てなくなったとき、新たな理解が欲しくて神を求めたに違いない
 富士アニマルファームでは昨日の夕方から急に冷え込み、予想通りに寒い朝を迎えた。場内の雪景色を写真に納めようと羊の放牧地でカメラを構えたら2頭が近づいてきた。私は羊の姿を見ている。ここから撮れば、私の背後から射している朝の光は逆行にはならない。柵を跳び越えてもっと近づくといい写真が撮れるかもしれないが、羊は逃げ出すだろう。朝なのにモヤーッともせずに、冷気のせいだろうか、昨晩熟睡したせいだろうか、感性が研ぎ澄まされている自分を感じる。今日はとてもいい写真が撮れそうだ。羊達はカメラを向けている私を見ている。群を代表して飼養上の文句を言いに来たのか左側のコリデール種、笑いを振りまいて挨拶に来たのか右側のサウスダウン種、羊を擬人化しながら私は羊達にどのように見られているか自分自身で問うている。同時に、朝の忙しい時間帯に写真なんか撮りやがってと職員達の苦々しく思っている顔も想像してみる。奉職して30年、職員に仕事を任せ、やっと自分の好きな仕事ができる立場まで辿り着けたことを感謝しながらカメラで羊達を捉えている。このようにして、私はいくつかの方法で私が自分であること、私は自分が意識していることを感じながら羊達と対峙しているのである。
 一方、写真に撮られている羊達は何を意識しているのだろうか? どういう意識がもてるのだろうか? 今日の自分は寒いと感じているのだろうか? それとも今日の天候は寒いと感じるのだろうか? 今日の天候が寒いから自分も寒いのだという関連性はわかるのだろうか? コリデールは勇気のある自分、サウスダウンは社交性のある自分と自身のことを思っているのだろうか? 後ろの仲間達は自分のことをどのように考えているのかと思っているのだろうか? 羊の意識もまた前頭葉を中心とした「メタ認知的ホムンクルス」モデルで成り立っているのだろうか? その人間との違いを「喰うために飼う」ことの根拠に我々はし得るのだろうか? 羊飼いほど懸命ではないにしても、私も理解を得るために本屋で出会った茂木健一郎さんの難しそうな本を俄に紐解いたのである。