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牧場だより「継・いのち」

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学

第97号:「樹海の『捨て犬』」

吉村 格(教授/副牧場長)

2013/06/06 更新
樹海の『捨て犬』
  県道23号線は開拓道路と呼ばれ、河口湖町鳴沢から青木ヶ原の樹海を真一文字に横切り富士アニマルファームのある富士ヶ嶺へと通じる道である。完全に舗装されてはいるものの夜は明かりなど全くない漆黒の世界となる。本学の会議などで遅くなるとこの10kmの道のりを魑魅魍魎の跋扈しそうな時間帯に通り抜けて帰らなければならない。かってカーブでハンドルを切るといきなり白装束のオウム教の集団が現れた時には驚かされたが、未だ赤いドレスを着た美しい女性から手招きを受けたことはない。いずれにしても私ごときに声をかけても無意味なことは十分に承知していたのだろう。しかし、この写真の犬は甲斐性のない私にでも興味と関心をもって大きく尻尾を振って近づいて来る。
 この場所にはよく犬が棄てられている。この犬も「捨て犬」である。現実世界を超越しようとしたオウム教信者や死に場所に舞い戻ってきた幽界住人の犬ではなく、心ある人間が飼っていた「捨て犬」である。捨てられた犬は棄てられたという現実に気づいていないのかもしれない。これまで随分と可愛がられて飼われていたのだろうか。一ヶ月後、この道を通ると犬は全く同じ場所にいた。ほとんど痩せてもいない。それどころかお腹を見ると子供を産んだ後なのか乳房は腫脹しどろめ色をしている。さらに一ヶ月後、もういないだろうと思って前を通るとナントまだ生きてるではないか。今度はかなり痩せている。車のバックミラーを見ると去っていく私にいつまでも視線を送ってくる。
 残念なことに、困ったことに、この青木ヶ原の樹海は自殺の名所である。地元消防団の大変なご苦労によって毎年60-70体の遺体が収容される。四肢が繋がった遺体であればよいが、手はあちら、足はこちら、頭蓋は見当たらないなど様々だそうである。苦しくて死のうとする者には自分の行く末など想像する余裕すらなかったかもしれないが、身体の全ては野の獣のエサとして食い荒らされ蹂躙されることになる。内蔵などは真っ先に食い千切られる。その野の獣の中にかって人間から一方的に愛された犬という獣は混じっていないか。愛された人間の肉を食って人気のない苔むした樹海の中で生き長らえる。愛した人間の骨をくわえながら主人が迎えにくるのを寂しさに耐えて待ち続けていないか。
 さて、目の前の動きを止めた人間の肉は飢えた獣にとっては大変な御馳走であろう。かっての飼い主であった人間の体臭は樹海の中で生き抜くうちに愛情の香りから餌の臭いへと倒錯する。今、腹を空かした彼らにとって生きた人間といえどもその臭いは命を支える餌の臭いのはずである。そう考えると写真を撮ろうとして車から降りた私に近づいてきた「捨て犬」は、果たして私を飼い主と勘違いして喜んで尻尾を振って来たのか、それとも食料になる肉の塊として涎を垂らして近寄って来たのか分からなくなる。いずれにしても家畜という人間の側で生きるために生まれてきた動物を捨てるという行為がなんと惨たらしい現実を生むことか。私は心ある人間ならば自分の手でしっかりと始末すべきだと思うのだが、社会一般では飼い犬を野に放して獣とする方が倫理観は上だと思われるらしい。