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牧場だより「継・いのち」

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学

第104号:幸福の追求

吉村 格(教授/牧場長)

2014/04/18 更新
 図らずも今回の人事でこの私が「牧場長」を拝命することになった。任期は平成26年4月1日からの2年間だという。「私ごときが牧場長になっていいのか」と尋ねると「お前ごときが牧場長にいい」と言われたので快くお引き受けすることにした。一般的に言って、組織の中で昇進することを望むと、否応なく組織が決めた仕事の先頭に立って頑張らなければならなかったり、上司や周囲の評判が気になったりと、残念ながら自分のやりたいこと、自分の好きなことは出来なくなってしまうのが常のようだ。しかも身を挺して頑張ったのに昇進の対象にもならなかったというのはよくある話で、「幸福」を望んだのに「幸福」になれず返って「不幸」になった、という話に似ていないこともない。
 今回の私の場合は、私にはこれしかできない牧場管理の仕事を好きなようにやらせてもらっているだけなので、有難いことに鞭と飴の洗礼を受けることもなく不自由さを全く感じることなく昇進することが出来た。きっと大学組織の目的と私のやっていることが合致した結果の拝命であろうと図々しく考えている。だから私の場合は「幸福」を望んだわけでもないのに突然「幸福」とやらが転がり込んで来た、という棚ぼた的な人事だ。そんな私が言うのも変だが、この「幸福」というものは、追いかければ追いかけるほど逃げて行くもののようだ。幸せでありたいと願う気持ちを否定するわけではないが、ただ「幸福」になることを目標に立てて、それに向かって意識的に努力するのは徒労のような気がする。
 私の仕事の対象は家畜である。私が管理している家畜の最大の幸福は私に飼われていることであり、最大の不幸は私に飼われているが故に生きるための目標が与えられていることである。即ち、私の役に立って死ぬことである。このように、幸福と不幸というのは対峙した構造だけではなく複雑に絡み合って依存している。不幸故の幸福、あるいは幸福故の不幸、というようなこともありうるのだ。それ故に幸福という目標を立ててそれに向かって努力しようという姿勢は、夢・幻に過ぎない幸福という青い鳥を求めての不毛な努力であると言ってよい。同様に家畜の幸福を追求することは無意味であると思うのだが、家畜が不幸でない飼い方を誠心誠意心掛けることは人間としての責務であると思う。
 さて、人によっても違うのだろうが、「幸福」が何も求めるものが無く満ち足りた状態を指すというのであれば、幸福になっている人は完全に満足している人であるから、何もすることなく、何をつくり出すことなく、何の役にも立たない人であるのかもしれない。この状態を維持しようとすれば、不幸になることを恐れ、やりたいことをやる自由さえ奪われ人は束縛されてしまう。富士アニマルファームにはそんな牧場長は必要でない。たとえ私が幸福でなかったとしても、私の存在自体や私の世の不足を補おうとする行為が人々にとって役に立たないとは限らない。自分の人生を自分なりに考えて行動し、その結果として人様の役に立っているとすれば全くもって本望である。