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「この一冊」 - 図書の紹介- 201110号 | 「グレイ解剖学の誕生 二人のヘンリーの1858年」
分類番号は491.1。
ものすごい「当たり」本。やはりあの格言は本当だった。事実は時として小説なんかより、ずっとすごかった。「ヘンリー・グレイの肖像」が、それを語っている。弱い立場だったからこそ、カーターもまた「他人を良く思おうとした」のかもしれない。
グレイ解剖学の誕生 二人のヘンリーの1858年
ルース・リチャードソン著 / 矢野真千子 訳(東洋書林 2010年)
2011/06/01更新201110号
貴方が『グレイ解剖学』を知らなくても、例えばドラマの『グレイズ・アナトミー』はご存知かもしれない。このドラマは超有名な教科書の名をもじって拝借したのだ。それほど『グレイ解剖学』は有名だ ―多くの日本人が『解体新書』の名を聞いたことがあるように。
本書のタイトルにある「1858年」は、その初版が英国で出版された年である。
年号を聞いてもピンとこない方には、それが安政年間だとそっとお教えしよう。あのペリー来航より、ほんの数年後の事である。
いくら改版を重ねているとはいえ、そんな時代の教科書が、まだ「生きて」いるのである。『グレイ解剖学』が奇跡的な一冊であることの説明は、これだけでも充分なはずだ。
が、本書は単なるメイキングと呼ぶには、あまりに格調高い。ハッキリ言って、そのへんの小説よりは本書を手に取ったほうがずっといい。読んでいくうちに、貴方はガス燈が照らすロンドンの霧の中に、二人のヘンリーと共にいることだろう。二人はまだ、三十代前半だった。第一章に二十代のヘンリー・グレイの写真がある。貴方はその美形ぶりに驚くかもしれない。彼は輝く目で、真っ直ぐにこちらを見つめている。
二人は共に、貴族でも資産家でもなく、だが有能で、呆れるほど勤勉で、成功を目指していた。特にグレイはそうだった。彼は賞を取り、懸命にコネをつくり、さらなる決定的な勝利のために、ある本の出版を企画する。画期的な解剖学の教科書。緻密な絵がレイアウトされた、真に医学生のためのものだ。そのために必要なのが優れた医学画家であり、グレイは「もうひとりのヘンリー」を知っていた。
まだ木版画の時代である。田舎から出てきた内気なヘンリー・ヴァンダイク・カーターの真価は、写真やCG全盛の現代で想像するより大きなものだったろう。本書に挿絵として示された彼の絵は、精密で、繊細で、芸術的にすばらしい。
だが彼の功績は長い間、正当な評価を得ることがなかった。
冒頭で明かされるように、グレイは三十四歳で急死する。日記も回想録も無く、同時代の誰も彼らについて書かなかった。だが本書を読んだ読者は、これが「ノンフィクション」であることを疑わないだろう。著者のルース・リチャードソンは、小さな骨を拾うように事実を集め、つなげていった。想像が補った部分はもちろん、かなりある。だがその精巧な想像はかえって当時の社会をまざまざと見せる手助けとなっている。ヴィクトリア朝の英国について、彼女の知識は極めて豊富だ。
グレイはカーターを必要としていた。が、栄光は分けたくなかった。本書はその、グレイがカーターにした仕打ちを白日のもとに曝すことになった。リチャードソンは第一章から、誰の肩も持たない冷静な描写をしている。が、その決定的な瞬間はどこか悲しげである。
終章に臨んで読者は、実は冒頭から二人がそこに向かっていたことを知るのだ。
ここにはドラマがある。そしてヴィクトリア朝ロンドンがある。当時の解剖をめぐる状況を読むのはつらいが、著者と訳者の、二人の女性による静謐な文章と、控えめな祈りが救いとなっている。当時の英国に魅かれる方は、本書を読みつつ、ハイドパーク・コーナーからピカデリーへと進み、トラファルガー広場に出て、チャリング・クロスから、『グレイ解剖学』の初版が出版されたストランド街へと抜ける道を歩むだろう。クリミア戦争を終え、セポイの反乱に手を焼きながらも英国は栄え、数年のちにはロンドンに地下鉄まで開通した。やがて第二次アフガニスタン戦争が起き、彼の地で傷ついたという英国人医師が聖バーソロミュー病院で「あの探偵」に出会ってからのお話が『ストランド・マガジン』に掲載されるまで、いま少しの時代であった。
図書館 司書 関口裕子