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「この一冊」 図書のご紹介

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学
庭仕事の愉しみ

庭仕事の愉しみ


ヘルマン・ヘッセ:V・ミヒャルス編(草思社 1996年)
2015/07/02更新201507号
分類番号は944.7。放浪癖のあるヘッセは束縛を嫌ったようだが、猫は飼っていた。名前は「ティーガー(虎)」と「レーヴェ(獅子)」。ティーガーを満面の笑みで撫でる写真に涙がでそう。そう、こういう顔をしてしまうよね。

日本人というのは園芸好きだそうである。
だそうである、などと他人事のようだが、ちょっと実感がないのだ。例えばイギリスの、あの広大なバラ園の美しさ。ドイツあたりの、建物の窓に色を揃えて、ずらりと飾る鉢植えの花。情熱と執念がすけて見える。うーん、すごい、と、いつも思う。
日本庭園の美しさもとても好きだけれど、あれは「園芸」ではないしなぁ。
が、出勤途中の道を見やると、軒下の鉢植えや、自家用車の脇に植えられた花々が、次々と目につく。家ごとに趣は異なるし、並んだ鉢植えに脈絡がなかったりもするが、それでも途切れることがない。江戸の町を歩いたロバート・フォーチュンが『幕末日本探訪記』で感嘆していたように、日本人は確かに「好きな植物をちょこちょこ育てる喜び」に目がないかもしれない。そうか、それもまさしく「園芸」の愉しみだ。

それに対して、本書はまさに「庭造り」の本である。
その「庭」のスケールが違う(いや、日本にだって広い庭はあるが)。木陰をつくる大木や、果樹園や、小道まである庭。それは長い年月をかけて造るものだ。そこには創りあげる愉しみと、延々と待つもどかしさがある。本書はヘッセの折々の文章を編んだ一冊で、彼も、これから創る庭に心躍らせたり、倒れてしまった木のことを嘆いたりしている。波乱の生涯をおくった彼に詳しければ、その時々の彼を垣間見ることができ、興味深いだろう。
また、さほど知らなくても、本書は魅惑的だ。エッセイ、詩、短編小説、童話、書簡の合間に、庭仕事をするヘッセのモノクロ写真と、ヘッセ本人が描いたカラフルな水彩画がちりばめてある。喜びに溢れた文章があるかと思えば、憂鬱な嘆きもある。なので、少しばかり印象がはかりがたいが、そこがまるで庭園の四季のようである。年代も、場所も、季節も、題材も違う文章の寄せ集め。だが、ちぐはぐさはない。しっかり束ねられた花束のように。

読み進むにつれ、なんとなくわかってくるが、計画し夢想し努力した結果の、予期したり予期しなかったりの幸せと不運を、時々に綴ればまさしくこういうものになるのだろう。それが、庭造りなのだとも言えそうだ。何だかジーンと来るのは、筆者自身、ちっちゃな鉢植えに膨らんだ蕾が、翌日すべて虫に食べられてしまったり(忘れられん)、予想よりずっと盛大に咲き誇ったコンテナに目を見張ったりしたことがあるからだ。
そして、それらを何度も繰り返すと、やがて悟る。園芸は、生きることにちょっと似ているかもしれないなぁ、と。

短編小説の「夢の家」はひときわ印象的だった。家族それぞれの人物像を、ごく等しく見渡す視線が照らし、短いながらも臨場感溢れる一場面を切り取っている。何より、時間をかけて造られた庭と家のイメージがすばらしく、そこに帰る喜びが綴られているのも愛おしい。決して定住型人間ではないヘッセが書くからこそ、輝きもひとしおだ(アルザスワインがあるのもポイントが高かった)。日本への憧憬もさりげなく書かれていて、なんともいえない一品であった。

ささやかに並べた鉢植えだけでも、休日の午後、草むしりをして土をふっくらさせ、新しい苗を植えて眺めると、ちょっとした満足感をおぼえる。そして、そういう作業中は、めんどくさい考え事はさっぱり忘れているのだ。その理由が、本書であらためてわかる気がした。
「この世の中は陰惨に見えますが、やはり春になると、どの花からも永遠の快活さが笑いかけます」
ヘッセが書簡の中に記した言葉が、木漏れ日のようにまばゆい。

図書館 司書 関口裕子