この一冊
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分類番号は081。分類番号は新書なので081。パンドラウイルスとか、どんぴしゃの命名を考えついたとき、快感だろうなぁ。ヤシオリ作戦ときいてニンマリしたクチです、はい。

ウイルスは生きている

中屋敷均 (講談社現代新書 2359 2016年)
2016/11/29更新201610号
読書家のY先生のオススメで、新書なので手軽に読み始めてしまい、あっちゅう間に読み終わった。何しろ面白くて。当たり本が続くと嬉しいですな。
「ウイルス」というと、もう聞いただけで臨戦態勢か退却準備、とにかくすぐさまやっつけるか何かしなければ、と思わされてしまう存在。病魔の形になった姿とも言うべきもの。例えばインフルエンザ。おおう…案の定、読み始めてすぐ懐かしくも恐ろしい本『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』が紹介されていて、軽く慄く。ずうっと前に当欄で紹介したのだ。第一次大戦時に猛威をふるったスペイン風邪の惨劇についてで、あまりに恐ろしさに瞬速で読んで書いた回。今もまだ覚えている箇所もある。そう、あの本は本当に怖かった。
ところが、本書はウイルスの怖さについて書いた本ではなくて、あらたにわかってきたけれどまだあまり知られていない「ウイルスの真実」についてご紹介し、さて印象が変わった彼のことをどう思いますか?というような、ウイルスのファミリーヒストリーというか、情熱大陸というか、そういう本なのだ。いつもの切り口ではなく、違った側面を見せてくれるのだ。
従来の印象では、ウイルスは生きた我々とは別個の存在。感染し変異を繰り返すけれど、どこまで行ってもウイルスであってそれ以外ではない。うつる、罹る、ひたすらそういうものという認識だったのだが、本書を読むとこれが違うのである。生命活動に必要なタンパク質ができる由来となったり、寄生した生物が生きるのを手伝ったりしている。時には、それはウイルスにとって何になるのか、誰得なのか、といった場合さえあったのだ。
少なくとも、自分が生き残るために手段を選ばず変異を遂げ、誰が病気になろうが死んでしまおうがおかまいなし、というウイルス観は、崩れてしまった。複雑な気分である。
それにしてもこの著者の中屋敷先生は、文章が達者だ。説明が何しろわかりやすく、比喩も多彩である。映画の『エイリアン』を例に、幼虫に寄生してその身を破って出てくる寄生バチを紹介して下さるくだりなど、その生々しさにぞおっとなった。その反面、中学生男子の丸刈りアタマを例にとって「どこまでを丸刈りと呼ぶか」というパラドクスを考え出すなどチャーミングである。おかげで「理系!」な内容も、すんなりアタマに入ってくる。そして終盤の盛り上がりに乗り遅れず、参加していけるのである。
そう、本書はただの「ウイルスの新説一覧本」「ウイルスの素顔紹介本」ではない。もっと大きなテーマを目指して突っ走る一書である。それはタイトルにもある「ウイルスもまた、生命なのではないか」という壮大なテーマで、本書を読む限りではまだ業界でも決着はついていないらしい。巨大ウイルスの発見など2000年代に入って研究が進展し、ついに2009年の『ネイチャー』姉妹誌上で「ウイルス生命認定派」「断固反対派」が激突し、どうもすごかったようだ。
筆者のようなウイルス音痴でも読んでちょっと興奮したのだから、ウイルス界にまったく疎い方も、本書は楽しめること受合いである。これは著者の類稀な客観性と、文章力による。著者はときに「ウイルスの立場にたって」考えることすら厭わない。「確かに自分では代謝装置持ってないけど、環境に依存して維持できるなら、それで何が悪い。お前だってアミノ酸作れないだろ」と、ウイルスが生物につっかかってくるあたりなど、ちょっと他にはない小気味よさを覚えた。
ウイルスが生命か、生命でないか、という問いは「では生命とは何なのか」という命題に直結する。本書の終章はほとんど哲学である。筆者の感覚では、哲学とはまさに文系の学問の極みであった。だが全編が科学的説明で覆われた、紛れもない理系の書である本書もまた、すぐれて哲学的な命題を突きつけてくる。思えば当たり前なのだ。いやぁ、なかなかこういう感動を覚える一冊はない。

文章力というのはやはり偉大だ。文系理系を問わず、脳内の思考は文章によって組み立てられ、それを外に伝えるのも文章しかない。著者はウイルスの真実を伝えるために、その文章力を存分に揮ったのであって、土台には豊かな読書体験が積まれていることと思う。
少なくとも今後『ネイチャー』姉妹誌の決戦のようなことがあったら見逃したくない気がする。素人にそう思わせるのはすごいことなのだ。ただ脱帽。


図書館 司書 関口裕子