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「この一冊」 図書のご紹介

日本獣医生命科学大学 日本獣医生命科学大学

おしゃべりな糖


笠井献一 (岩波科学ライブラリー 290 2019年)
2020/04/15更新202002号
分類番号は408。白血球が血管内壁をごろごろ転がり減速してシュタッと目的地で止まるのは「ローリング」ですって。アクション俳優か! 誰をアテるのがいいかなぁ…。

糖、とか糖鎖、について、いままで興味があったわけではありません。
でもタイトルに惹かれて手に取りました。このシリーズが読み放題だなんて、祝福せよ!ここの編集者さん、凄腕なんだろうなぁ。書き手さんもみなさん「よしきた!」と意気込んで書いている。推さずにいられないシリーズです。
糖は貴重なエネルギー源だけど、取り過ぎには注意しないと。筆者の意識として「糖」とのおつきあいは、今までそんな感じでした。ですが、そんなシンプルな存在ではなかったのです、糖におかれましては。糖あってこそ、細胞たちがおのおの抜かりなく、体内でおのがお役目をまっとうできていたのです。
本書は、彼ら糖の生い立ちから一生をかける役割まで、セキララに書かれています。しかし、まるまる一冊です。馴染みがないだけに、ハードルが高そう。
でも、だいじょうぶ。心配ご無用でした。
「読ませる文章」を書く理系研究者さんに目のない当欄ですが、この著者先生の手練手管はものすごい。これほど「引き」のある文章は注目しなければいけません。
「おしゃべりな糖」の方々は、存在自体がユニークです。「核酸」さんやタンパク質さんのように、連結用の凸凹で一列につながるレゴブロック(著者曰く「一次元のバーコード」)のような折り目正しい方々ではありません。糖は、いわばタコ足配線の「二次元のQRコード」。それも設計図なしの「無政府状態」で現場監督も不在。フリーランスの職人のような糖転移酵素が「指令書なしで地方自治体に丸投げされ、製品チェックもない。無計画な多品種少量生産で、企業のコンサルタントなら、経営がなってないと酷評するでしょう」といったありさまの現場でつくっているものだそうです。そういう面々が重要な役割を担っている生命ってどうなの? そこがまた、奥が深いところです。
そう、本書は糖だけでなく、体内で起こっている地味だけど注目すべき仕組みについて開陳してくれているのです。たとえば「人であれば、ふしだらと断罪されること間違いなし」のレクチンとか。レクチンはタンパク質ですね。同僚(?)の酵素や受容体や抗体が「正しいパートナーとだけ付き合う」のと対照的に「そうとうにルーズ」だそうです。どんな風にルーズかというと「たとえば酵素や抗体は例えば“鯛”という一文字だけ読込むのとしたら、レクチンはいくつもの魚偏の漢字を読み込んでしまう」。仲間たちが寡黙にひとりとビジネスしている傍らで、手広くやっているというわけですねわかります。
そもそも科学において、現象を巧みに表現したネーミングは多いのです。理系研究者さんのセンスを侮ってはいけません。タンパク質分子がすくすく育って正しく折りたたまれ(*フォールディングといいます)て「成人」するのを手伝うタンパク質を「シャペロン」というと初めて知りました。シャペロンとは、西欧貴族社会で社交界デビューする令嬢たちを導く年上女性です。誰ですこんなグッジョブな命名をした方は!

そして、研究のリアルをそこここで実感できるのも本書の「お得」です。タンパク質「リシン」が一躍有名になった暗殺事件や健康番組が起こしてしまった事件、自然現象として排出される倫理上もクリアな糖それがミルクオリゴ糖!だったこと、遺伝子工学研究に大腸菌!が思わぬ役割を果たしていたこと、などなど。科学研究とは、どこかの研究室でマニュアルチックにただ発展するものではなく、もっとなまなましい、スリリングな、豊かな活動であるのです。そして糖はまだまだ未知であるだけに、そこにある発見には多くの可能性がある。著者は、そんな糖研究を広く紹介すべく、本書を世に送り込んだのです。

あとふたつだけ。
「不可能を除いていくとだね、残ったのがどんなに奇妙なことであっても、それが真実なのだよ」というシャーロック・ホームズの言葉を地で行くくだり。ある酵素が細胞質内で見つかったとき、それは批判的にみられました。細胞質内に糖タンパク質なんていない筈で、対応する酵素はそこでやることなんかない、おかしい! しかし実は、細胞質内で働くためにではなく、廃棄される過程で放り込まれた糖タンパク質がいたのです。その発見が、研究をさらに推し進めることになったのでした。
そしてもうひとつ。タンパク質界の異端児レクチンについて、著者はこう語っています。
「生物は絶えず変化する状況に取りまかれ、うまく対応するために懸命です」
「レクチンの不道徳性は、生命の在り方の根幹とも関係していそうです。それは、生命に柔軟性と多様性を与える効果です」
「生物は生きていく上で、想定外の事故、予想外の敵の出現、環境変換などにいつもさらされています」「決まったマニュアルに従うことしかできないシステムでは、臨機応変な対応ができません」
「冷静な細胞が残っていれば安全弁になりえます。強力な病原体に出会ったときも、一部の細胞は攻撃をかわして生き残れるかもしれません」
「強いもの、厳しいものにだけ価値があるわけではない」
なぜか、心に響きました。そして、もう一度最初から読み返し、筆者はいまこれを書いているのです。


図書館 司書 関口裕子